●遊び仲間をつくろう

公園で。12月に裸足? ナニシテルノカナ コノヒトタチ…

前回記事(こちら)の続きです。 遊び力(=考える力)を伸ばすための、“環境づくり”について。

現在、親が呆れるほどの遊びへの貪欲さを見せる我が家の長男(小学1年生)、彼の遊び力をここまで高めてくれたのは、幼稚園時代に得た、沢山の“遊び仲間”たちでした。
<①幼稚園のお友達> <②親の友人の子ども> <③近所のお友達>

卒園と共に<①幼稚園のお友達>と離れ、次は<④小学校のお友達 >との出会いが。しかし地元の公立小学校ですから、自由な遊び時間が中心だった幼稚園とは雰囲気がまるで違い、友達と馴染むのにも時間がかかるようでした。もともと人見知りなところもある子だし、まだ1年生だし、誘い合って放課後も遊ぶ、という風にはなかなかいきません。
そんな彼を救った(?)のが<③近所のお友達>でした。幼稚園時代から、家に帰ったら公園に行って遊ぶのを日課にしていたため、いつのまにか、年齢や性別を超えた<公園仲間>が沢山できていたのです。小学校の退屈な授業にはストレスもあるようでしたが、放課後、公園で仲間と思いっきり体を動かして遊ぶことで、この半年、彼の目の輝きは失われることがなかったように感じます。
「近所の友達って貴重だな~」と感じた半年でした。

もちろん①②の友達との繋がりも失われてはいません。が、会うとなれば親同士で連絡しあう必要があります。どうしても<非日常の遊び仲間>であることは否めません。それに対し③の友達は完全な
<日常の遊び仲間>。親がわざわざ連絡したりせずとも、勝手に子ども達同士で遊びが始まり終わる、という点が大きな違いです。こういう<日常の遊び仲間>を持てるか否かは、“遊び力を高める”
というテーマにおいて、非常に重要になってくると思います。

生徒の話を聞いていて、また保護者面談でのお話から、“遊び力の二極化”が進んでいると感じます。友達と遊ぶことが好きな子は、高学年に近づくと勝手に小学校で友達と約束をして、毎日忙しそうに遊びまわるようになります。いわば“遊びの自立”を果たす訳です。それに対し、なかなか遊び面での自立が進まない子もいます。大人が遊び環境を用意すればそれなりに遊ぶものの、そうでないときは「家でひとりで遊ぶ方が楽しいから…」外に出ていくことがないのです。前者は時を経るごとに経験を積み遊び力を高め、後者はその機会を得るためのきっかけをなかなか掴むことができません。

なぜこのような差が生まれてしまうのでしょう。その子の性格?あるいはそれもあるかもしれません。しかしそれ以上に大きいのは、「幼少時に“時を忘れて友達と遊ぶ楽しさ”を充分に経験したか否か」だと私は思います。 初めて友達を誘うのは勇気がいります。輪の中に入っていくのは尚更。友達と
遊ぶと厄介なことも多いし、時には傷つくこともあります。家でひとりでテレビを見ていた方がはるかに楽でしょう。嫌な思いをすることもないはず。いくらお母さんが熱心に“必要性”を訴えても“楽しさ”を
経験として知らない子にとっては、一歩を踏み出す理由がないのです。

こうして“遊び力の二極化”は進んでいきます。10才以降から状況を変えるのは非常に難しいものがあります。もっとも“遊び”の価値をどう捉えるかは人それぞれです。昨今は、友達と遊ぶ楽しさのような“人とわかちあうことの大切さ”よりも、“人より秀でることの大切さ”が声高に叫ばれる時代です。
能力育てにのみ価値を置く大人から見ると、それこそ“時間の無駄”かもしれません。
ただ、私自身は一人の親として、長男が幼少時に<日常の遊び仲間>に恵まれたこと、そして“友達と遊ぶ楽しさ”を充分に経験できたことを、とても嬉しく思っています。考える力の養成、という意味でも、他者との関わりのベース作り、という意味でも、大きな財産を得たのではないかと思っています。

共感して頂ける保護者の皆様、お子様が“日常の遊び仲間”に恵まれるような“環境づくり”をお願いします。そのような場を探すこと、加わること、なければ作ること、難しい場合もあるかもしれませんが、できることはやってほしいと思います。「ご近所づきあいとか公園デビューとか、どうもおっくうで…」
わかります。最近は特に、情報ツールの進化によって同じ価値観を持つ人と繋がりやすくなっていますから、「ちょっとタイプが違うかも…」という子どもや保護者との関わりに躊躇してしまう部分があると思います。しかしそういったことを含めても、一歩を踏みだす価値はあるはずです。閉じずに開くこと。勇気と共に踏み出す“一歩”は、将来のお子様の“一歩”に、きっと繋がるのではないでしょうか。