●エスペラールとエスペランサ

という名前のTシャツを買いました。十代の頃から敬愛しているアーティスト、小沢健二さんの展覧会(@PARCO)にて。

このブログでは“待つこと”の重要性について書くことが多いのですが(前回の記事もそうですね)、彼の著書に“待つこと”に
ついての、とても素敵な文章がありましたので、今日はそれを引用したいと思います。 以下、小沢健二「うさぎ!」より。

 「待つこと」トゥラルパンが話し始めました。
この十五才の少女には、南の大陸をゆくバスに乗って銅山の国にやってくる途中、ずっと考えていたことがありました。それは 「エスペラール」 と 「エスペランサ」 ということでした。

南の大陸で広く話されている言語で、「待つ」 は 「エスペラール」、「希望」 は 「エスペランサ」 といいました。そして、考えてみれば 「待つ」 と 「希望」 は、深く関わっているようでした。
人は、希望があるから待つのだし、待っている時には、心の中に希望が宿っているはずでした。

けれど、灰色のつくり出す世界では、「待つこと」はだめなことなのです。人びとはいつもイライラしていて、「早く早く」「速く速く」と急いでいます。
新しい品物を、他人よりも「早く」手に入れて、「速く」配達してもらって、急いで消費しなければならないのです。他人よりも早く、「ああ、あれ、もう古いよ」と高らかに宣言するのが、「かっこいい」のです。

子どもたちは、学校で急がされます。「早く早く」 「速く速く」 。じっくりと答えを考えていてはだめで、早く、速く、答えを思いつくと、先生に誉められるのです。
けれどもしかしたら大事なのは、じっくり考えることなのかも知れないのです。

「要するに何?結論は?ポイントは何なの?はやく!」灰色のつくり出す世界では、日常会話でも、相手を待たせてはだめらしいのです。しかしもしかしたら、考えがあっちへ行ったり、こっちへ寄り道したり、なかなか結論に行かない、その過程のすべてが、その人の「考え」なのかも知れないのです。

そんな「速く」「早く」の世界では、人は待つことができなくなって、いつもイライラしています。
待つこと(エスペラール)が消えてゆく世界では、もちろん希望(エスペランサ)も消えてゆきます。
人が何かを「心待ちにする」能力は衰えていって、眼の前にないものは、ただ「ない」ものになります。
けれど本当は、眼の前にないものは、「待つ」ことのできるものだ、とトゥラルパンは思うのです。
眼の前にないものを待つことによって、希望がふわりとその姿をあらわすのだと、思うのです。

「待つこと。ただ待つのではなくて、待ち、望むこと。」