●授業の進め方(後編)

それでは前回の続き、後編をお届けいたします。参考になれば幸いです。

■整理する:どうにも行き詰って鉛筆がずっと止まっている場合も、同じように“確認”を一緒にします。それにより、合っているところと違うところ、何がわかっていないのか、そういったことが整理されます。問題点が明らかになれば次の方針がたちますので、また動き始めることができます。ただし、一番大切なポイントだけは伝えてしまわないように気をつけます。本人が自分で気づくことが大切ですから、できるだけぼかした形で示唆するようにします。
それから「できました!」とは言うものの、式だけで絵や図がない場合。文章題に取り組む目的は“考える力をつけること”、そのために大切なのは“問題文の通りの絵や図を描くこと”といつも伝えていますから、この場合は「おっ答えがでた!?やるね~。よし、じゃあ問題文の通りの絵を描いて確かめてみようか!」と言って続けさせます。

■丸つけする:確認でOKが出て丸つけをした後には、良かった点を一緒に振り返ります。本人が絵でこだわったポイントに対してのコメントは欠かせません。
丸がつくまでは“解き直し”が続きます。どうしても解けない場合には切り上げます。時間が残っているときに切り上げることは少ないのですが、あまりにも正答までの道のりが遠そうで、かつ本人の集中が切れてしまっているときは「よし!今度また頑張ろう!」で次の問題に行きます。“やらされてる感”が出てしまってはアウトです。また別の日に、レベルを落とした類題から再スタートです。
解けたときも解けないときも、アドバイスや別解の紹介は最小限に留めます。本人が自分で気づいたときの感動を奪わないように、ということを意識しています。 (関連記事:熟成のすすめ)

■壁を乗り越える:物事が思うように運ばないとき、人は誰しも感情的になってしまうものです。子どもなら尚更。たとえそれが表面に出ていなくても、うまく解けないときには心の中に嵐が吹き荒れていることもあるでしょう。教室では「わからん」「できん」「しらん」などの否定的な言葉を口に出すことを禁じています。教室の雰囲気が悪くなり他の人の迷惑になるから、という理由もありますが、一番は本人のためです。否定的な言葉を口に出すと否定的な感情に支配されてしまうと考えるからです。そのような状態で問題を解決することは不可能です。感情に振り回されることなく、それを前向きなエネルギーに昇華することが必要です。難問に対して、諦めずに粘り強く考え抜くことができれば、飛躍的な成長は間違いありません。しかしそのためには“感情のコントロール”を学ぶことが必要です。教室では、難問に定期的に取り組ませることで、感情のコントロールを学ぶ機会を作っています。これを学ぶことが、ひいては“生きる力”を育むことに繋がると考えています。
さて、そのように、“荒れ狂う感情をなんとかコントロールしようと悪戦苦闘しながら難問に取り組んでいる子ども” を “見守る大人” の態度はどうあるべきなのでしょうか。
子どもが思うように動いてくれないと、やっぱりイライラしてしまいますよね。不安があったりすると尚更です。「なんでこれが解けないの!」「もうっ、こうすればいいのに!」「やる気あんの!」よ~く気持ちはわかります。私自身、そういうときはいつも心の中は暴風雨、サイクロンです(笑)。しかし、子どもの「は~っ意味わからんし!」と同じように、感情に任せて否定的な言葉を吐いても、状況を悪化させるだけです。私はいつも、嵐のとき(?)は自分にこう言い聞かせます。「よしそうか、これは精神修行だ、これを乗り越えれば成長できる、この子と一緒に頑張ろう、見本を見せてやろう!」 頭と気持ちを切り替え、前向きに捉え、明るい気持ちを保つよう努力します。この状況でどれだけ肯定的な要素を見つけ、どれだけ肯定的な言葉を紡げるか、非常に難しいですが、非常に取り組みがいのある課題です。
いつもうまくいくとは限りませんが、子どもと一緒に“それぞれの壁”を乗り越えることができたときの
達成感は格別です。ただしうまくいかないときに自分を責めすぎないようにしましょう。「正解不正解という結果はおまけ、解こうと努力する過程に意味がある。」 それと同じなんじゃないかと思います。

●母の日

先週の日曜は“春風荘の春風市”。
初の日曜実施でしたが、今回も沢山のお客さんで賑わいました。
私も楽しませてもらいました。ご協力いただいた皆様、足を運んでくれた皆様、どうもありがとうございました。

当日になって気づきましたが、実は“母の日”だったんですね。
いつも頑張っているお母さんが、春風市でくつろいだ時間を過ごせたのであれば嬉しいです。母の日だからか日曜だからか、お父さんの参加率が高かったのも印象的でした。(私以外は)女性ばかりの部屋の入り口で、「うわっ、ここ入るの?」と躊躇するお父さんの顔を観察するのが楽しかったです(笑)。

最近、暇さえあれば育児本を読み漁っているのですが、“母性”と“父性”のバランスというのが、けっこう大事なポイントみたいですね。この二つは一人の人間のなかに混在するものですから、一人で両方をバランスよく与えることも可能です。かく言う私も、教室では一人ですから、自分なりに状況に応じて受け入れたり距離を置いたり、考えながら接しています。
しかし性別的にも立場的にも、どちらかというとやはり“父性”的な接し方が基本になっているのかな、と前回の記事(授業の進め方)を書いてみて感じました。だからこそ、生徒達のお母さんには、母性的な役割を担ってほしいと思う気持ちが強いです。それがあって初めて、教室での指導も上手くいくのかな、と感じています。 (参考記事:ご家庭でお願いしたいこと)

もちろん中には、「ちょっと父性が足りない気がする…」と感じる子もいますから、状況によっては父性的なものを意識して接する、ということも大切だと思います。なかなか難しいことですけどね。
FAX添削生のお母さんからのメールを読んでいると、学習指導に関わることが多いぶん、二つの役割を同時に担うことの難しさがあるのだろうな、と感じます。教室の指導と同じようにはいかないでしょう。「大変だろうけど、親力はすごくアップするだろうな、その努力は子どもにもいつか伝わるはずだから、頑張ってほしいな」と、いつも思っています。

ただ、もしそれが可能なのであれば、“お父さんの力をもっと借りる”、ということも大事だと思います。「アンタもちょっとは…」 という真の想いは押し隠し(笑)、「やっぱりアナタの力が必要なの(キラッ)! という感じで話をして、不足を補ってもらえるといいですね。意外とお父さんはそういう声を待ってるかもしれませんよ。基本的に男は「仕方ね~な~俺に任せろ!」というのが好きですからね。「ちょっと雑貨とかパンとか見たいから子どもよろしく」 よりは絶対に燃えると思います(笑)。

●さて、問題です。

今日は何の日? そう、それそれ。まさか忘れてませんよね? 正解は・・・5・1・9、そう、“こいくの日”
でした♪(昨年のブログ) 皆さん、心の中で「もうそろそろね」とチェックしてくれていたことと思います。
・・・まぁ、私は昨日、お迎えに来たお母さんに「先生、明日こいくの日ですね!」と言って頂いたのに、思いっきり 「はぁ?何それ?」 いう顔をしてしまったのですが…。(Kさん、ありがとうございます!)
反省して(?)来年以降、5/19は“初心に返る日”にします! 教室のオープンは2010年7月1日なのですが、授業を自宅で始めたのは、だいたい二年前のこのくらいの時期なんですよね。気になり調べてみると、5/11に「HPできました」、5/19に「FAX添削始めました」というブログ記事を書いてました。

この二年間、「勇気を出してチャレンジして良かったな~」と、たぶん1000回くらいは思いました。
おかげさまで、今の仕事をとても楽しんでいます。ご存じの通り、学び舎こいくは“どんぐり倶楽部”の教育理論をベースに授業を行っているのですが、実践すればするほど、この教育理論の“異質さ”を感じています。何というか、他の教育法が“普通の農業”だとすると、私がやっているのは“自然農法”
みたいな感覚なんです。考え方のベースが、ちょっと違う気するんです。
情報革命の時代ですから、アニメとか3Dとか、子供たちに“わかりやすく教える”手法は確実に進化しているし、今後も進化は続くと思います。しかし、効率性を最大限にアップさせた“型”に子どもをはめていくそのやり方で、本当にその子は、歪みなく健やかに伸び続けることができるのか? 私は疑問を持っています。勤めていた塾で「ここではこれ以上は自分の理想を追求できない」と感じた一番の理由は、企業である以上は持たざるを得ない「効率を上げていく」という基本姿勢が、幼児期の子どもの教育にそぐわないのではないか、つまり根本の方向自体が違うのではないか、と感じたからです。

歩き続けよう。この道を信じて。

「どれだけ手を加えるか」 よりも 「どれだけ手を加えないか」、
子どもが本来持っている“伸びようとする力”を信じて、余計な手を加えずに、環境を整えてひたすら待つ、こういうやり方の面白みにハマっています。(自然農法についての理解が違ってたらごめんなさい)
先日の“授業の進め方”の記事でも書きましたが、余計な手を加えず、信じて “待つ”ことは時に苦難です。しかし、その苦難を乗り越えた時に咲かせる花、その子だけの“世界に一つだけの花”の美しさといったら!(はい。フレーズはパクリです。笑)
一人ひとりが見せてくれる花が常に違うから、二年間ひたすら
“絵で解く文章問題”でも、全く飽きるということがありません。おそらくこういう世界は、知れば知るほど面白みが増すんでしょうね。ふふ…楽しみです。三年目も楽しませてもらいます!

●エスペラールとエスペランサ

という名前のTシャツを買いました。十代の頃から敬愛しているアーティスト、小沢健二さんの展覧会(@PARCO)にて。

このブログでは“待つこと”の重要性について書くことが多いのですが(前回の記事もそうですね)、彼の著書に“待つこと”に
ついての、とても素敵な文章がありましたので、今日はそれを引用したいと思います。 以下、小沢健二「うさぎ!」より。

 「待つこと」トゥラルパンが話し始めました。
この十五才の少女には、南の大陸をゆくバスに乗って銅山の国にやってくる途中、ずっと考えていたことがありました。それは 「エスペラール」 と 「エスペランサ」 ということでした。

南の大陸で広く話されている言語で、「待つ」 は 「エスペラール」、「希望」 は 「エスペランサ」 といいました。そして、考えてみれば 「待つ」 と 「希望」 は、深く関わっているようでした。
人は、希望があるから待つのだし、待っている時には、心の中に希望が宿っているはずでした。

けれど、灰色のつくり出す世界では、「待つこと」はだめなことなのです。人びとはいつもイライラしていて、「早く早く」「速く速く」と急いでいます。
新しい品物を、他人よりも「早く」手に入れて、「速く」配達してもらって、急いで消費しなければならないのです。他人よりも早く、「ああ、あれ、もう古いよ」と高らかに宣言するのが、「かっこいい」のです。

子どもたちは、学校で急がされます。「早く早く」 「速く速く」 。じっくりと答えを考えていてはだめで、早く、速く、答えを思いつくと、先生に誉められるのです。
けれどもしかしたら大事なのは、じっくり考えることなのかも知れないのです。

「要するに何?結論は?ポイントは何なの?はやく!」灰色のつくり出す世界では、日常会話でも、相手を待たせてはだめらしいのです。しかしもしかしたら、考えがあっちへ行ったり、こっちへ寄り道したり、なかなか結論に行かない、その過程のすべてが、その人の「考え」なのかも知れないのです。

そんな「速く」「早く」の世界では、人は待つことができなくなって、いつもイライラしています。
待つこと(エスペラール)が消えてゆく世界では、もちろん希望(エスペランサ)も消えてゆきます。
人が何かを「心待ちにする」能力は衰えていって、眼の前にないものは、ただ「ない」ものになります。
けれど本当は、眼の前にないものは、「待つ」ことのできるものだ、とトゥラルパンは思うのです。
眼の前にないものを待つことによって、希望がふわりとその姿をあらわすのだと、思うのです。

「待つこと。ただ待つのではなくて、待ち、望むこと。」